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歌舞伎を歩く…2
前回の「歌舞伎を歩く」の反響が大きかったのですが、その中でも、何処を歩いて来たのか、解らないとの声がありましたので、先ず地図をご覧下さい。
この地図は、上が西になっていますので、ご了解下さい。
この地図の右から順に…吉良邸→回向院→御船蔵跡→芭蕉庵→萬年橋→赤穂義士休息の地→富岡八幡宮…と巡って来ました。
そして当時の吉良邸ですが…
右の写真が、地図の中の赤い部分です。
そして斜線部分全てが吉良邸で、約2,500坪位だった様です。 因みに黄色が「回向院」で、緑が「時津風部屋」です。
次は御船蔵跡地ですが、この地には昔、沢山の蔵が建っていて、船が着いて荷物を次々に蔵に運び込む光景が、日常茶飯事として行われていたことでしょう。
そして次の絵は、安藤広重の描いた「大はしあたけの夕立」ですが、昔からこの絵は知ってましたが、何故「あたけ」が付いているのだろうか?
そして大はしとは、何処のことだったんだろう…と云う疑問が、ありました。
先ず大はしとは、両国橋に続いて造られた「新大橋」のことだと解りました!
次に「あたけ」ですが、三代将軍家光の時、ここに「安宅丸」という、当時最大の船が横付けされました。
当時の建立技術で造船された最大のものだっただけに、江戸湾からこの川に、中々入ってこられませんでした。
そこで当時の美声ナンバー1の「猿若勘三郎(現・中村勘三郎の祖先)」が喚ばれ、勘三郎の音頭取りで、漕ぎ手の息が合って、漸く辿り着いたと云うエピソードがあります。
その為安宅丸は、二度と運行することはなく、従ってこの新大橋…当時の呼び名は「大はし」のたもとに繋留された安宅丸に因んで、安宅丸が見える處での夕立と云う意味で、広重は題名を決めたものと、思われます。
この素晴らしい広重の作品を、そっくり模写した人がいます。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの描いた、大はしあたけの夕立です。
そして次に訪れたのは、松尾芭蕉が住んでいた、芭蕉庵の跡地です。
芭蕉が住んでいた頃は、大きな池があって、鯉が沢山飼われていたそうで、その池に飛び込む蛙の姿を観て詠まれた句が、ふるいけや…で有名な俳句だ。
この石碑に刻まれた文字は、芭蕉の直筆だと云われている。
處で…芭蕉とは、どんな樹木なのか、恥ずかしながら…知らなかった。
この写真が、芭蕉の葉と実だ。
芭蕉本人は…
こんな、人だった様です。
そして次は、萬年橋からの風景です。
左が広重の「萬年橋下」で、右は僕が撮った写真です。
昔は、広重の絵の様に、富士山までが見えたのだろうに、今ではビルが沢山建って、すっかり景色が変わってしまい、とても寂しい。
そして少し歩くと、平賀源内が電氣を見付ける実験をした場所があった。
最後に、赤穂浪士が休息を取った…所縁の地です。
この場所には当時、「乳熊味噌」の製造販売の店があった。
今ではビルになってしまっている。
『インターネットから…
永代橋といえば、忠臣蔵でも、本懐をとげた赤穂浪士たちが泉岳寺を目指して引き上げる時に、永代橋を渡って来たのが有名ですが、その元禄十五年十二月十五日の朝、永代橋たもとにある「乳熊味噌屋」では、ちょうどその日に店舗増築のための上棟式をすることになっていました。
元禄初期に伊勢の国から江戸に出て来て、深川のこの地で創業を始めた乳熊味噌屋の初代、竹口作兵衛さんは、俳句をたしなむ人で、赤穂浪士の大高源吾(俳号子葉)とは其角門下の友人。それで作兵衛さんは浪士たちに酒をふるまい、労をねぎらったそうです。
「ちくま」が千曲でも筑摩でもなく「乳熊」というのはとても珍しいですが、伊勢国乳熊郷(現在の三重県松阪市)の地名だそうです。
現在は初代の作兵衛さんからは何代目になるのかわかりませんが、竹口敬三さんという社長さんのもと、「ちくま味噌」と社名が平仮名に変わり、会社はお隣の福住町に移転しましたが、永代橋際には、名前をそのまま残すビルと、忠臣蔵のいきさつを書いた碑があります。
長助親分やおえいさんは、町内の寄り合いなんかできっと何度もこの話を聞かされていたんでしょうねぇ。』
ちくま味噌は、羽田などでは、東京土産として重宝がられているそうです。

