1 : DIARY「おや・まぁ・へぇ」

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親父友達・大塚会長から教えられたこと

今日8月4日は、大塚製薬の創業者のお一人である、大塚芳満氏が亡くなられて、満7年目になります。

それを想い出して、大塚さんとのお付き合いを書いてみたいと思います。

但しこの文章は、亡くなられた後、追悼集に掲載させて頂いたものに、写真を加えたものです。

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親父友達・大塚会長から教えられたこと
                                        中 村 守 夫

  「君は、勉強に来たのか?遊びに来たのか?」これが大塚さんから私への、第一声でした。
ニューヨークのケネディ空港で、1987年8月29日(土)の午前10時30分。
経営合理化協会主催の「アメリカの‘87新しい動き」という研修旅行で、ボストンに向かうPA-528便に搭乗する直前のことでした。
  何人かの悪友も一緒に参加していましたので、研修の方はそこそこに、結構羽目をはずすことも多い旅行でした。
その中でも前の晩、ニューヨーク・ハドソン河のナイトクルーズの船上で、私がアメリカ人の可愛い女の子を誘ってダンスをしたことを指しての発言であることは、すぐに気が付きました。

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今考えると失礼な返事をしたものだと思っていますが、その時の私は「会長だって、昔は女の子とダンスくらいしたでしょう?」というものでした。
すると「ああ、君がきのう踊っていた女の子よりも、もっと可愛い子とな!」との返事!これには驚きました。
  さらに厚かましく私が「随分綺麗な、お若い奥さんですね!?」というと「ああ、あれは二人目やからな!!」と。
なんちゅう人じゃこの人は…絶句しました…私。 この時からです。 
大塚芳満という人に興味を持ち続け、そしてその想いは今も尽きません。

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 思えば大塚さんとのお付き合いは、こんな会話の連続でした。
  最初の思い出深い出来事は、この旅行中のことでした。
同行した我々悪友連の間では、奥様を「八千草薫」、会長には「菅原文太」とひそかにあだ名をつけておりました。
旅行の最後にお別れパーティーを催すことになり、私が責任者になっておりました。パーティーの開会の言葉をお願いに文太会長のお部屋へ伺った時でした。
そんな感じでみんなには、「行ってくるよ」「行っておいで」とばかりに気軽な気持ちで出掛けたのですか…。「君達若い者が考えているんだから、自由に、好きなようにしたまえ」というばかりで、なかなかお引き受け下さいませんでした。
そのうち私の困惑した様子をみてか、不承不承ながらお引き受け下さいました。
  翌日の夜のパーティーでは、昨晩の仕返しとばかりに豚のお面を会長に被っていただき、徳島の阿波踊りをお願いしたのです。
すると今度は気持ちよくお引き受け下さり、阿波踊りの指導を兼ねて奥様と一緒にその場を大いに盛り上げて、最後は全員で阿波踊りを踊って、大変楽しいお別れパーティーを催すことができました。

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我々悪童共は呆気にとられ、まさに一本とられた感じでした。
まるで親鳥が羽を広げて包み込むような、そんな温かさを感じ、会長のスケールの大きさに心から感動しました。
  翌朝、団長の高島 陽さんから、「今まで経験した『お別れパーティー』の中で、昨日のが一番楽しかった」と言われ、企画した仲間全員で喜び合いました。

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これ以降、鳴門と東京で、会長と私の文通による遠距離交際(?)が始まったのです。
私にとっての会長は、「親父友達」という不思議な関係になってゆきました。

 そんなお付き合いの中で、私の事業の方向性を大きく変えた助言がありました。

 1995年の2月に、私は、ザ・ビートルズのメンバーで、故「ジョン・レノン氏」の記念館を日本で造る構想について、すでに未亡人の小野洋子さんとの契約も済ませていたにもかかわらず、最終的に実行に移すべきか、止めるべきかを悩んでおりました。
 家内の薦めもあり、ご迷惑と思いながらも会長にお手紙を書きましたところ、すぐに次のような返事を下さいました。
  要約しますと、「本当の商売というものは、他人の名声を利用したものではなく、自分の力でできる仕事をすることだと思います。また君は、それができる人だと思っています」と諫められ、励まされたことです。

 このお言葉によって私の中の迷いは吹っ飛び、「ジョン・レノン記念館」の建設計画を断念しました。
 なお余談ですが、今年(2000年)の10月に「ジョン・レノン記念館」が埼玉県の大宮で竣工の予定です。
私は、このプロジェクトには参画しておりません。

  そして一番激しくやり合ったのが、最後にお会いした時でした。
奥様と私からの二つの「延命のお守り」を持ちたくないと言いだされたのです。
鳴門へお伺いして「延命の願いを込めたものだから、ぜひ持って欲しい」と申し上げたのに対し、『人の命は天命であり、お守りを持ったくらいで命が延びるものではない。』と強く拒否されました。

  当時会長の癌については、御家族の方のみが御存知で、会長自身も知らないことでした。
しかも12月まで持てばいいと言われていた年の、9月のことです。
一日も長く生きていただきたいとの一心でしたので、私の語気も失礼なほどに激しくなり、返す会長の言葉も強くなりました。
  その時のやり取りを気に掛けて下さったのでしょうか、会長から最後に戴いたお手紙には、こんな風に書いてありました。
  『私にとって、お守りは猫に小判です。あなたも金運があって信じたみたいだけど、まだあなた、1年、半年で答えはムリですよ。それほどご利益があるなら、デスクに置いて、ずっと2~3年実験して下さい。私の延命は、誰もわかりません。運があれば4、5年、なければ一年でオダブツですよ。』(原文のままです。)
 消印は鳴門局で、平成10年11月16日。亡くなられる9ケ月前のことでした。

お通夜の時に奥様と、「お守りは持っていただけなかったけれど、こっそりとおそばに置いたお陰で、8ケ月の延命ができたんですよね。」と慰め合いました。
 
話は前後しますが、ある時、私の事務所にお越しいただいた折に、手土産代わりだと言って、こんなことを仰いました。
  「人を観るときには、相手が有名だとか、お金を持っているとか、テレビやマスコミによく出ているとか、そういったことを一切抜きにして、自分の勘、すなわち心の眼でみて人を判断せよ。」
  この言葉を、いまでも初めてお会いする人との名刺交換の際に、思い出します。
  これまで数え切れないほど沢山のことを会長から教えていただきましたが、『自分の力でやり遂げよ! 他人の力を頼るな!!』という根本の教えを、これから私がどの程度実行していけるのか、天国から見守っていただきたいと、願って止みません。

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 心から御冥福を、お祈り申し上げます。ありがとうございました。

  感謝合掌 

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コメント

こんばんは
今日私は茶会を主催いたしました。裏千家のお家元が書かれた「竹有上下節」という掛軸を使いました。席中でこの言葉の解釈を述べるのですが、私はこのように解釈しました。
「竹は下から上まであまり太さも変わらず、同じように見えるけれど実は節で少しづつ分かれていて、上、下がはっきりしている。つまりは私たちも同じで、どんなに親しくなっても先輩は先輩、師は師。目上は敬う気持ちをもたなければならない。」
今日の日記を読んですばらしい人間関係に感銘を受けました。

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